●お題目と実体(文責:どんぐり倶楽部)

●0-12才のもっとも大事な人間育てをする教育現場で、お題目と実体が合致している場を探すのは非常に難しい。

 反対に、アピールする為に、お題目に(意図的に)補助として、差し障りの無い耳障りの良いことを掲げ、
 本体は危険な学習を進めているところは、ゴマンと知っている。
 しかも、学校が非常に多いのには危機感を感じる。
 小学校(幼稚園なども)に到っては、背筋が寒くなる。

 例えば、「規則正しい生活をしましょう」「優しく語りかけましょう」「スキンシップが大事です」といいつつ、
 本体でやっている実体(中心)は<高速・反復・大量>という、厳禁学習である。

 もちろん、実質的な影響は本体からくるので、結果は惨憺たるものである。

 しかし、説明はアピール文でウヤムヤにされる。

 逃げ道を作っているだけなのに、
「ここ(アピール文:キャッチフレーズ)は良いから、みんないい」になってしまい、厳禁学習を許してしまう。

●「体験学習の勘違い」も同様である。

 体験は、味わう時間を確保していなければ無意味である。
 ただ、出かけていって、時間を気にして見て回りレポート提出...×××。
 数多くは意味が無い。

 有意味なものにしようとすると
「ゆっくり、ジックリ、丁寧に」時間をかけて、となるから、必然的に数は少なくならざるをえない。
「できるだけ多くの体験をして〜」の時点で、勘違い教育だと分かる。
「量より質」と言うよりも「質のみ」が正解である。
 ココに気づくと、環境を言い訳にはしなくなる。できなくなる。する必要がなくなる。
「経済格差」が架空のものであることには言及した。もちろん、環境は経済だけではない。が、全て「質」の問題である。
 人生は質である。と同義だ。
 教育は子供達の未来を育てる。
 それは、子供達の人生とも言える。
 そこに「質」を見出さなくて何を見い出そうというのか。
「お題目」には気をつけることだ。

●成長期には、お題目ではなくやっていることそのものが重要であり、やっていることから生まれる感情や思考が実体であり、それ以外は何もない。

<例>
「こういうふうに花を折ってはいけません」と言いながら花を折っている。(映像を見せる)
→花を折ることに快感を覚えるようになる。(映像の真似をしたくなる)

お題目:花を折ってはいけない
実 体:花を折ることに快感を覚えるように育てている

お題目と実体の乖離に気づかないで、お題目を信じて、とんでもない実体を子供に与えている保護者は多い。

●どんぐり倶楽部の場合は逆が多い。
 普通に見える実践(本体)が、非常に高度に仕組まれた仕掛けになっている。
 何の変哲もない「クロッキー帳をお勧めします」「10の補数と九九以外は暗算厳禁」にも深い意味がある。
 進化を促進するからだ。
 どんぐりのルールはただのルールではない。
 そんなものなら、書き残したりしてはいない。

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